gasonの徒然なるままーに

不惑になるのはいつのひか

愛を読むひと

序盤のエロなシーンと、
中盤以降の正義を確かめるシーン。
ギャップは凄いが、序盤から中盤以降への繋がりは胸をうつ。

読めない。
だから読んでもらう、
徹底してそのシーンを喜怒哀楽交えながら描かれた後に、
急に時が飛び、初めての女がアウシュビッツの悲劇に関わっており、
それを傍聴するという機会に遭遇する主人公。

罪と恥と、それらは尊厳として
映画のラストへと見事に結びつけられていると思う。

ケープタウン

血で血を洗う。
表現としてはいささか綺麗なイタリアンマフィアのその法則を、
えげつない描写でこの映画は説いた。

特筆すべきは映画内の大抵の犠牲者が「事件に直接的な関与をしていない」ことだ。
事件の操作にすこし、関わっただけで死に至らしめられる、ころされる。

非情な街なかに、むしろオーランド・ブルームのような
直情的な人間が魅力的に写る。

母親をころされた瞬間から修羅となってしまった、アリ。
それは周囲からとめることは出来ず、
街の混迷は当面のあいだ収まらないことを示唆している。

ルーム

ム狭い狭い、1部屋から始まる物語。

 リングは無限大だ(キン肉マン
 自分探しの旅(を渇望する人々)
 引きこもり(部屋にいきる人)

脱出し、初めてセカイを見たジャックは戸惑い、
いつもの部屋に帰りたいという。

徐々に、世界と触れ合う機会を増やし、
母親と一緒に「なんでも挑戦するように」していった。

そこには当たり前とされるような幸せがある。

目を向ければ、きっとそこには当たり前の幸せがある。
スマートフォンという狭い文字列から世界をみるか、
歩く中で自分が全心身で触れ合う世界をかんじるか。

親の「子どもを大切にしたい」「当たり前の子どもの楽しみを与えたい」
そのためにとった行動に対する苦悩と、容赦ないインタビュー。

今後の幸せを少しにおわせながらも、
実は本当の(幸せな?)苦悩はこれからだ、と諭すような終わり方。

自分なら、部屋の中で生活し日々当たり前のことから
新しいことを発見することを選んでしまうかもしれない。

感動、と喜怒哀楽

感動するにもいろいろな方法がある。

 

喜ぶ

怒る

哀しむ

楽しむ

および、それらを合わせたもの。

 

ロボットが決して人間と同等の存在にならない、と否定する人は、これらを再現するのが不可能だから、という。

 

ところで、私は非情に涙もろい。

昔から涙もろいが、その脆さは累乗の比ではなく、年々、

心の何かが開いたかのように、滔々と涙がでてくる。

 

極端な話、イイね!、と言われただけで泣くかもしれない。

 

それは、自分のちょっとした頑張りに対して、コーヒーを奢ってくれる先輩にだったり、

暗い暗いトンネルを無灯火で車を走らせる人へだったり、

片足を何らかの理由でなくしたハトであったり、

深く息を吸い込んでうまい空気を吸いながらラジオの音声にわらうときである。

 

赤ちゃんは泣く。

それはこの世の中が分からず、喜怒哀楽すべてがこれから来ることを表しているし、

喜怒哀楽すべてを同時に味わっているからかもしれない。

 

経験(学習可能)を積むごとに、涙もろくなるというのは、

感動をつくるレシピ、組み合わせが増えてくるからなのかな。

レシピ、組み合わせならロボットにも備えられそうだが、

備えられたときに、先に泣くのは人間のぼくだろう。

遊星からの物体X

これが1982年の作品か、というほどに、
グロテスクさは目を背けたくなり、
緊迫感には鼓動が速くなる。

北極という、生命の感覚をあまり感じない場所だけに、
異常な生命が出現し、
しかも侵食してくるとなると、
不信感による緊張はひとしお。

血が逃げる、という描写はちょっぴりクスっとしてしまった。

アルゴ

切迫した状況が常に、それもメリハリの効いた描かれ方がなされ、
緊張感が物凄い。

映画のロケハンです、だなんて大使館人質立て籠りの状況でそんなのあり得るか?
と思いつつ、ありえない状況を映画にしてきた歴史があっての大演出ですね。

救出に回った側、される側、ともに極限状況で
「演じなければいけない」ことを強要され、
とにもかくにも成功させた。

空港での絵コンテのシーンで心が解かれたのが、
疑う側も、「疑わしきは罰せよ」を超えて
こんな映画をつくるのか楽しみだな、という表情になったこと。

バカバカしさや有り得なさを常々追求していたことが吉と出た、
逆羊飼い物語といっても良いかもしれない。

誰がためにウグイスは鳴く

山際にある家のすぐ側、小さな林がある。

子どもの頃から見慣れた林で、

亀を飼っている我が家では、冬になると冬眠する亀のための

布団にあたる枯れ葉をその林でひろう。

 

その林を最近は、伐採している。

 

寂しさが当然おおきく、しかし土砂崩れの危険を防いだり、

新たな住居開発のために仕方がないのかもしれない、

など考えてしのぐ。

 

そんな、より小さくなりつつある林から、今年もウグイスの鳴き声が聞こえる。

 

晴れた日はもちろん、小雨が降る日にも美しいホーホケキョが聞け、

桜の散った今、もっとも春を感じさせる瞬間である。

 

さて、ウグイスたちにとって、林が小さくなることはどのような意味があるのだろう。

「ホーホケキョ」

去年と、いや、わたしが小学校を卒業する頃の20年以上前から変わらないその声は、

別に春のためでもないし、わたし(たち)に春を告げるために鳴くわけでもないことを主張するかのように、

刻々と、撤去されてしまう鳩時計のことなどつゆ知らず。

 

カラス以上に、ウグイスの勝手でしょう、ということなのかもしれない。

来年もまたきてね。