感動、と喜怒哀楽
感動するにもいろいろな方法がある。
喜ぶ
怒る
哀しむ
楽しむ
および、それらを合わせたもの。
ロボットが決して人間と同等の存在にならない、と否定する人は、これらを再現するのが不可能だから、という。
ところで、私は非情に涙もろい。
昔から涙もろいが、その脆さは累乗の比ではなく、年々、
心の何かが開いたかのように、滔々と涙がでてくる。
極端な話、イイね!、と言われただけで泣くかもしれない。
それは、自分のちょっとした頑張りに対して、コーヒーを奢ってくれる先輩にだったり、
暗い暗いトンネルを無灯火で車を走らせる人へだったり、
片足を何らかの理由でなくしたハトであったり、
深く息を吸い込んでうまい空気を吸いながらラジオの音声にわらうときである。
赤ちゃんは泣く。
それはこの世の中が分からず、喜怒哀楽すべてがこれから来ることを表しているし、
喜怒哀楽すべてを同時に味わっているからかもしれない。
経験(学習可能)を積むごとに、涙もろくなるというのは、
感動をつくるレシピ、組み合わせが増えてくるからなのかな。
レシピ、組み合わせならロボットにも備えられそうだが、
備えられたときに、先に泣くのは人間のぼくだろう。